「教師は嫌われてなんぼ」
こんな厳しい教師像ってどこかにありませんか。
厳しく生徒を指導して、「あの先生は怖い」と思われて(時に恐れられて)、一種の畏敬の念を抱かれる。自分の前だと生徒がビシッとなって、授業もクラスも絶対に崩れない。
生徒になめられちゃいけない。ビシッということを言わなきゃ。教師は人気商売じゃないんだから、生徒に気を遣ってどうする。
生徒には嫌わるときもあるけど、自分は教師として正しいことをしているんだという自信がある。自分の言葉は後で分かってくれるようになればいい。教師なんて嫌われてなんぼ。
これは多くの人が認める教師像の1つだと思います。
確かにいますよね、厳しいのに慕われている人って。多少問題のあるクラスでも、この先生に授業を持ってもらえば間違いない、っていうような信頼感もあったり。
私が生徒だった時を思い返しても、生徒側からも「この先生は正しいことを言ってくれる、この先生に言われたらすっと心に入る」という感じはどこかにあります。
多少生徒は甘い教員が好きかもしれませんが、こと保護者に関しては「しっかり指導してほしい、しっかり授業してほしい」と思っていますから、甘い教師より厳しい教師を求める傾向があると思います。
厳しい教師の存在価値は間違いなくあると思います。そして、この「厳しい教員」は、自分がそうなれるかどうかは別として、多くの教員から羨望のまなざしで見られます。この先生がいると場が締まるな、って思うときがありますよね。
特に教員経験が浅いときは、なかなか生徒との距離感がまだ分かりません。
生徒と近い距離でやろうとして、友達感覚になってしまい、なめられてうまくクラスのコントロールもできないことが起きたり、逆に厳しく接しようとして、無駄な反発だけを生んだり、、、そんなことで誰しもが悩んだ経験があるのではないでしょうか。
だから「良き厳しい教師」であることに一種の憧れが生まれ、自分もそうでありたい、自分もそうなんだという思いが芽生えてくることでしょう。
根本的にはその思いはよく分かるんです。でも一方で、ちょっと違うな、って思うことがあります。
時々「私、結構厳しいので」「生徒に怖がられていて」などといった一言を、話の中にあえて挟んでくる人がいます。実際に本当に厳しい先生もいると思うのですが、実はそうではないタイプのほうが多いのではないでしょうか。
女子校に勤めていた私の個人的な経験則に基づいた独断と偏見ですが、これは男性にも多くいますが、より女性、特に若い女性の教員に見られがちな傾向だと思います。
女性は母性にあふれているので、厳しい側面を持っていたとしても本質的にはなんだかんだ心優しい人が多いんです。
女性はなめられがちということを認識していて、彼女たちなりに「厳しくしていこう」と頑張っているからこそ、そういう一面を見せているのかもしれません。
誤解を恐れずに言えば、厳しいということをアピールして自分を守っている側面もあるのかもしれません。若ければなおさら、情熱があるからこそそういう自分を作っていきたいと思いますよね。
それ自体は決して悪いことではないのですが、一方、率直に言って、「厳しい」と自称してそんなに肩肘張らなくていいのに、あなたの良いところはそこじゃないのに、と思うんですね。
確かに、強い教員として見てもらいたいという気持ちは分かるし、「良き厳しい教師」は羨望の的ですが、ある意味これって素質による部分もあり、なろうと思ってなれるものではありません。
別に「厳しい教師」にそんなに価値を置かなくていいのに。なんか「厳しい教師」が本来の意味からずれた価値観を帯びている気にもなってきます。
もちろん自分の授業やクラスが成立させるためにそれなりの厳しさは必要ですが、みんな性格もタイプも違うんだから、自分の良さを認識して、それを活かして生徒に接するほうが楽だし、うまくいくし、そして、そのほうが教育自体にバリエーションもできて良いのではと思います。
優しい教員は時に「甘い」と批判されることもあるかもしれませんが、自分なりのマネージメントができていて、自分なりのラインが守れているのなら、その特性を活かしたほうが絶対生徒にとっても良いですよね。私は羨ましいですよ。
「厳しい」を自称する必要ないと主張しているそんな私は自称も他称も厳しい教師です。次のコラムで書こうと思いますが、今はずいぶん違うかもしれませんが、少なくても前任校では100%「厳しい教師」として真っ先に分類される人間でした。
女性が持つ母性なんて、私は全財産はたいても手に入りません。真似しようと思っても苦しいし、私をよく知る教員は「マックスが母性???ゲラゲラゲラ」と思いっきり笑われるだけです。母性はまさにタレント(才能)です。
このコラムのタイトルになっていますが、私が教師像を話す時に良く出す話をします。
なんと私の妻の登場です。他のところでも述べたことがありますが、私の妻も教員をしています(ちなみに教科は国語です)。
教員を医者に例えると、私は完全に外科医です。
メス使いは抜群だと思いますし、バシバシ生徒を厳しく治療することには長けていると認めます。若いころは、時に治療じゃなくて、切るだけになるときもありましたが。
一方うちの妻は内科医です。
彼女は私のようなメスさばきはできません。いや、彼女にはメスは必要ありません。でも、相手の話を聞いて、触診で症状を見抜いて、その身体にあった治療法を探していくタイプです。しかも薬は西洋薬ではなく漢方を処方するタイプです(ちなみに彼女の思想に東洋医学は本当に合うらしいです)。
山崎豊子の大人気小説で「白い巨塔」というものがありますよね。2003年のドラマでは、唐沢寿明と江口洋介がそれぞれ財前(外科医)と里見(内科医)という対照的なキャラクターを演じて話題となりましたが、見たことありますか。
あの財前が私で、里見の女性版が妻です。財前が癌手術をめぐる裁判で「ガンを切除しようとしたんだ何が悪い!」と叫ぶ姿、、、私かも。
私は、彼女をすごいなと思います。同時に、私は絶対に妻の真似はできない。
学ぶことは多々あるけれど、タイプが違いすぎて、真似をすることはお互いの良さがいきないし、まずやろうと思っても無理。なれないものはなれない。
ちなみに、医者に例える話の続きですが、女性で自称「厳しい教員」は本来内科医タイプが多いと思います。
一方、男性のケースでは整形外科タイプの良くも悪くもマメな男性教員がこれにあたる気がします。レントゲンやMRIを分析して、論理的に判断、そしていろんな機器を使って治療するのが得意という人が外科の手術着を着て、メスも使えますよ、って。
でも、白い巨塔では財前が悪役になってしまいましたが、医療もそうだけど、教育もいろいろなタイプの教員がいて、いろいろなアプローチがあるから初めて機能する部分もあるでしょう。
特に教育は、相手が人であり、心を扱うからこそ、単一的なアプローチはなく、逃げ込める場所も必要であれば、話を聞いてもらえる人や反発できる人も必要です。
「生徒指導」というとどうしても「注意する、叱る」というイメージが強くありますが、生徒に目を向けて生徒と接するものは全て生徒指導なはずです。
寄り添うのも突き放すのも、叱るのも褒めるのも全部あっていいはずだし、全部なくてはいけないはずです。
なるべく多くのアプローチをもっていたいし、幅広く対応できるに越したことはありませんが、自分のタイプに合わせて、自分らしく生徒指導にあたることがお互いにとって一番良いことだと思いますし、長い意味で関係を構築することにつながるのではないでしょうか。
このロールモデルの話の原点は実は私が教育実習の時に遡ります。
私の最大の恩師ですが、指導教官をしていただいた青野先生という方にこう言われました。
「同性の教員でロールモデルとなる人を見つけられたら幸せだよ。」
色々なタイプの先生がいるけど、自分と違うタイプの人をまねようとしても苦しくなる。だから同性で自分のイメージを重ねられる教員を探しなさい、ということです。
私も今までに2回教育実習生を持ちましたが、このことをそのまま彼女たちに伝えています。
私が教育実習生を受け持ったのは前任校の女子校時代ですから、実習に来る学生もみな女性です。私の授業も教育観も学んでもらえる部分は多々あると思いますが、特に私は個性が強いので、彼女たちは絶対に私をまねできないし、なろうと思ってもなれない。
だから、女性の教員の中で自分に肌感覚が合うと思う先生の授業を見て、彼女たちなりのロールモデルを探求するように言います。
また、私は東京都初任者研修の指導委員をしていますが、参加者にこのロールモデルの話をすることがあります。まさに妻と私の例を出し、無理せずに自分なりのロールモデルを見つけてほしいというメッセージを伝えます。
初任者研修だからこそ、自分なりの教員像を見つけられるような機会であってほしいなと思っています。
私自身のロールモデルは見つかったかと言うと、はっきりと「この人」という答えはありません。
英語教育をいろいろ教えてもらったという意味では、上述の青野先生もロールモデルの1人なのかもしれません。
しかし、あえて答えるなら、自分自身というのが答えでしょうか。
ナルシストみたいですね(ナルシストなのでしょうが)。でもちゃんと理由があります。
1つは、私にとってロールモデルは結局のところ、自分が見てきた多くの教員のいいとこ取りの集合体であり、実体のないコンセプトみたいなものです。
英語教育のこの部分はこの先生の考え方を参考にしたい、生徒のこういう接し方はこの先生がうまいなー、とか、 これまでも色々なものを学ばせていただき、盗ませてもらいました。
ですからモデルはむしろ無数にいますし、それらを自分自身に重ねていった結果が「今の自分」です。
そういう意味では、できていない部分が多いかもしれませんが、自分自身が投影したい教師像は自分が持っているということです。誰かを目標にするのではなく、自分が構築してきたこの教師像をゴールとして追及したいという思いがやはりあります。
2つ目に、その理想像に近づくためにはどうしたらいいのか、結果や効果はさておき、自分なりに最大限試行錯誤しているつもりです。
うまくいっていない部分もやたらあるし、最終的に届かない部分もあるでしょうが、それを実践していきたいという思いと試行錯誤をしているというプロセスは今の自分のプライドです。
だからこそ、今の自分が未来の自分のモデルになるようにしていきたいという思いです。