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模擬国連の紆余曲折

ここ数年、新大会の役員、練習会の主催、そしてこのHPでの執筆など、何かと模擬国連と関わることが増えてきました。

しかし、実は、ここに至るまで、この模擬国連は私の中で紆余曲折がありました。模擬国連が私の中心的な活動の1つになってきた今、その告白を含め、この活動に対する私の原点と思いを書いてみようと思った次第です。

模擬国連との出会い

私が模擬国連を知ったのは2011年、第5回の全日本大会です。

その年、私が運営していた実践女子のGSC(グローバルスタディーズクラス)の1期生が高校1年になり、2人の生徒が全日本大会に初出場しました。強豪がひしめく中、彼女たちはいきなり優秀賞を獲得し、翌年5月には日本代表団としてニューヨーク世界大会に派遣されたのです。

全国各地の優秀な学校が集まる中で、日本代表団に入れるのは5チームだけ(現在6チーム)。その中にGSCの生徒が切り込んでいったのです。この快挙で学内も盛り上がり、一気に模擬国連という名が認知されるようになりました。

その後、刺激を受けた生徒たちが次々と生まれ、実践女子は2014年まで4年連続ニューヨーク大会に進出し(しかも2014年には最優秀賞)、模擬国連の強豪校として名を轟かせました。

その当時、私はグローバル教育部長でありながらも、模擬国連にほとんど関わっていませんでした。実質的には、奥井先生という教員が一手に担い、指導していた活動で、私は、部長ということで、多少その雰囲気だけ都合よく見せていましたが、サポートの「サ」にすらなりませんでした。

ある意味、私は蚊帳の外です。

生徒たちは、その年の夏に行われていたオーストラリア3か月留学の間に予選課題に取り組んでいたのですが、私は引率として現地に1か月半滞在していたにもかかわらず、そのことを帰国直前になって知ったぐらいです。

実は、学内でもあまり知られていませんでしたが、これには経緯があったのです。

前年の2010年に、模擬国連という取り組みを知った教員から「やってみませんか」と私のところに依頼と打診が来ていたのですが、あまりにも忙しくて死にそうだった私は「今は、これ以上新しいことに手を付けられない」と首を縦に振ることができず、当時国際交流部長をしていた奥井先生がそれを引き受けてくれたのです。

模擬国連を目にして

そんな中、GSC1期生が全国大会に出たとき、模擬国連が何かも全く分からない中で、私も会場に足を運びました。

そこで目にした光景、そして異様な会場のダイナミズム。今でも忘れられない衝撃でした。

なんじゃ、こりゃ。。。

正直、たかが高校生のディスカッション程度にしか思っていませんでした。ところが、大人でもついていけないハイレベルな発言が交わされ、生徒たちが動きまわり、まさに「国連会議」と呼ぶにふさわしい会議をしている。

そして、我が校の生徒たちが、他の大使たちを引っ張り、明らかにその輪の中心にいる。身体が固まる思いでした。

彼女たちは確かに優秀な部類に入る二人で、英語もよくできましたが、かと言って、特段すごいわけでもありません。特に私は中1からずっと接していたので、彼女たちに対して「特別感」を持っておらず、模擬国連と言っても、「まずは参加することに意義がある」程度の活躍だろうと思っていました。しかし、そこには、私が思いもよらない二人の姿があったのです。

どんな感じでその数時間を過ごしたでしょうか。奥井先生にいろいろ説明してもらったものの、何の基礎知識も勉強してこなかった私はよく分からず、何が行われているのかも把握できないまま、ただただそこにいたという感じだったと思います。

私は所用で、最後を待たずに会場から引き揚げました。帰りの電車の中でも、何か心地よくないモヤモヤが残っていました。帰宅後、私の携帯に「優秀賞、NY進出決定!」というメールが届きました。

葛藤

嬉しかったか?・・・いや、正直、悔しいという思いが一番印象に残っています。いや、面白くない、という言葉が一番正しいかもしれません。

恥ずかしい話ですが、「悔しい」「面白くない」いう感情が先に立ち、素直に彼女たちの快挙を喜べなかったのです。

器の小さい話かもしれませんが、私がメインで関わっていなかったからです。私が毎日苦しい思いをしながら作り上げてきたGSCの中ではなく、外部のプログラムで輝く彼女たちがいたからかもしれません。

自分の作ったクラスの生徒が世界に進むんです。本来なら、もろ手を挙げて歓喜するべきところです。でも、それが素直にできなかった。スポットライトを浴びるのは、そっちじゃないだろう。。。

自分の頑張りが、一瞬にして横から持っていかれたような思いがありました。「俺は何をしているんだろうか」。

その日からしばらく何かが止まっていたような気がします。前代未聞の快挙に学内が湧き上がるなかで、私は「模擬国連」という文字を見るとなんとなく複雑な思いがこみ上げてきます。

奥井先生にも言葉を寄せるのですが、プライドが邪魔して、祝福の言葉のはずが労いの言葉に置き換えてしまうほどに。しかし、悔しさも消せませんでしたが、すごさも認めざるをえませんでした。交錯する思いが自分の中でモンモンとしていたのを覚えています。

私を救ってくれたのは、他の誰でもなく、模擬国連を率いていたその奥井先生の言葉です。私より15歳近く年上の教員ですが、こう言ってくれたのです。

「優秀賞をとれたのは関先生のおかげです。あなたが頑張って、ここまで育ててくれた生徒だから賞が取れたんです。あなたが全てを作ってくれ、模擬国連はあくまでもその一部分だけだよ」と。

彼は、そんなこと言ったっけ、って言いそうですが。奥井先生とは今でも一緒に模擬国連をやっていますが、今でもたまにそういうことを言ってくれます。

負けてられない

その後も、モヤモヤした思いはありましたが、そのすごさと魅力を認めるにつれ、私の中の「反骨精神」が「良きライバル心」へと変わっていきました。

自分はどうやったら、生徒たちにグローバルのエネルギーを与えられるのか。模擬国連に負けてられない。そんな思いでグローバルキャリアをはじめ、生徒に熱を与えたいと頑張ってきました。

2013年、GSC2期生が出場し、3年連続のNY大会進出を決めました。そのペアのうちの1人が、前回のコラムの中で紹介したメッセージをくれた生徒です。

本当に頑張り屋で、人柄的にも優れており、私自身、厚い信頼を置いていた生徒でもありました。やはり彼女の活躍は嬉しいものがありました。素直に嬉しかったです。

そして、少しずつ奥井さんに教えてもらったり、生徒の英文を見てあげたり、練習会を見学させてもらったりして、模擬国連をかじっていくようになりました。

分けのわからないプライドが故にひねくれていた私ですが、ジレンマの中でも微妙な距離感で模擬国連とうまく付き合ってこれたのも奥井先生や彼女のような良き生徒に囲まれていたからです。

新しい学校で

2015年、実践女子を去り、現在の勤務校に移りました。その際に校長に強くお願いされたことの1つが模擬国連でした。

その他の分野については、英語教育、グローバルキャリア、課題解決プログラム、帰国生教育、留学、海外進学、、、グローバル教育の先進モデルとして認知されるだけのことをやってきたつもりです。

しかし、模擬国連はまだ不案内な分野で、私の唯一といってよいウィークサイドでした。

プレッシャーもありましたが、その時、これはチャンスだと思いました。自分のウィークサイドを、自分の手で、しかも自分自身の形で開拓していくことができる。勉強もたくさんしないといけない。奥井先生にもまた教えてもらおう。そう思いながら、頑張ろうと半分ワクワクしていました。

そして、その時、私の中で定めた目標がいくつかあり、その1つに「自校で大会を開催できるまで、生徒に力を付けさせ、私もそれを指導できるようにしたい」というものがありました。

今、模擬国連に寄せる思い

それから2年が経ちました。今では、模擬国連との関係も濃くなり、自分の重点分野の1つにまでなってきました。

実に悩ましかった模擬国連。しかし、この模擬国連の衝撃と葛藤の経験は大きかったです。そして、この経験が1つの糧となりました。紆余曲折があったから今の私の模擬国連がある。あの葛藤があったから、今、ここまで頑張って取り組んでいる自分がいるのかもしれません。

やればやるほど、模擬国連の魅力にはまり、奥井先生のすごさもよく分かる。彼には感謝は尽きません(言わないけど)。

しかし、たかが模擬国連です。

全ての生徒が参加するものでもないし、グローバル教育の1つの切り口にしかすぎません。私がどっぷり魅了されているのは、その持つ教育の可能性やアプローチ、そして世界平和を志す生徒の眼差しです。

この教育の魅力を広めて、グローバルの熱を生徒に還元していくのか。それがやりたいんです。今もなお「模擬国連には負けてられない」です。

そして今年

模擬国連開始から早くも1年、縁があって昨年夏と冬に自校を会場にして合同練習会を開催することができました。

そして、今年2017年の夏、本校で3回目の合同大会を主催します。

これまではフロントと呼ばれる議長、会議監督という要は他校にお願いしていましたが、今回は本校の生徒がフロントも務めます。

しかも、なんと実践女子との共催です。GSCの生徒も協力してくれることになりました。どちらも私にとっては今でも「自校」です。本当に嬉しい。きっと素晴らしい大会になるでしょう。

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