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私の教育ポリシー

3つの軸

私の教育の軸は単純です。3つしかありません。

「世界とつなげる」「未来とつなげる」「真理とつなげる」、この3つです。

自分の教育はほぼこの思いだけで成り立っていると言っても過言ではありません。実は私の教育ポリシーはとっても単純なのです。いろいろなことを作りたい、変えたい、という思いはここから出ています。

学校は窮屈です。閉じられた平穏な空間で、決められたカリキュラムがあって、教員と生徒という立場と関係性が主で、その中で授業をして、、、それで教育が成立してしまうわけです。

学ぶ意義や目的が明確でなくても学習は起きるし、かと言って、昨今声高に叫ばれているような「学びの意味」なんてことを押しつけられたら、そもそも「学ぶ」という行為が物質的な価値しか持たず、おかしな方向に行ってしまう気もします。

では、私は自分の教育の中で何を教え、何を伝え、生徒にどう育ってほしいのか。

世界につなげる、未来につなげる

もし、教育に社会的な意義や目的を求めるなら、模範的な解答としては「未来の世界を主体的に生きる力、スキルを養う」といったことになるかもしれません。

私の言っている「世界とつなげる」「未来とつなげる」という部分はこれにほぼ一致します。でも、おそらくニュアンスや、もしかしたらその根底にあるものもずいぶん違うかもしれません。

ぶっちゃけ、本音で言えば、生徒の未来の生き方は生徒が考えればいいわけで、どうでもいいと言えばどうでもいいんです。

私の思いは本当にもっと単純。生徒の「見ている世界を最大限広げてあげたい、視界を変えてあげたい」、そう思っているだけなのです。

私たちの人生や社会が「空間」という横軸と「時間」という縦軸でできているのならば、その軸の最大スケールは「世界」という空間と「未来」という時間です(科学的には「宇宙」かもしれませんが)。

だからそこまで広げて物を見てほしい、感じてほしい。そして、広い視野と価値観で自分や世界というものを考えて、アクションを起こしてほしい。それだけです。

この広く、激動の世界はすさまじい衝動とエネルギーに溢れています。私自身、学べば学ぶほど「世界はなんて広いんだ、なんて大きく変わっているんだ!」と衝撃を受けています。学ぶたび、「なんじゃ、こりゃー」と震撼するのです。

私は生徒にもこのエネルギーを感じてほしいし、このエネルギーを与えたいんですね。どうやったら世界を見せてあげられるんだろう、どうやったら未来を見せてあげられるんだろう、それが私の教育の大きな命題で、グローバルキャリアの中で試行錯誤しているところです。

もっと単純に言うなら、井の中の蛙に大海と未来を見せたい、ということです。そして、「こんなに世界は広く、多様性に富んでいるんだぞ、面白いだろう、こんなに未来は激動なんだ、お前らはどう生きるんだ!」、そう問いたいのです。

私は「見ている世界が変わる」とよく言いますが、それなんです、それ。いろんな刺激を受け、当たり前だったものが当たり前ではなくなる。今までの価値観は通用しなくなり、見ている世界が変わっていく。それがまた面白い。そこに、「変わりたい」、「学びたい」という生徒たちの熱くも確実な欲求が生まれてくるんです。

グローバル教育は単なる英語教育や国際交流、課題研究ではなく、世界の熱エネルギーに触れさせ、世界的な視野とマインドを育てる教育です。

そして、キャリア教育は、職業選択やキャリア形成、進路選択だけを求める教育ではなく、未来の熱エネルギーに触れさせ、その視野から自己変革をデザインさせる教育です。

だから私が大切にしているコンセプトに「グローバルキャリア」という言葉があるのです。どうやって生徒を世界とつなげるのか。どうやって未来とつなげるのか。未来と世界という視野から今の自分を投影し、見つめ直し、そして自己変革(セルフイノベーション)を求めていく。それがグローバルキャリアの根本です。

そういう意味で、教科教育もその他の教育活動も全てグローバル教育であり、キャリア教育だと思っています。

もちろん私も最初からその教育ビジョン持っていたわけではありません。前任校でGSC(グローバルスタディーズクラス)という新コースの設計をし、グローバル教育部長を務めた中で、たくさん勉強したし、生徒たちに教えられました。

当時はまだ漠然としか思っていなかったのですが、新しい学校に移り、自分の教育原点や大切にしていることを見つめ直したりする中で、明確になってきました。

しかし、面白いものです。思いがクリアになればなるほど、強くなればなるほど、「世界につなげる」「未来につなげる」というようなより抽象的なものになっていくのですから。考えれば考えるほど、具体的になっていくと思ったんですけど、逆でした。

真理とつなげる

最後の軸、「真理とつなげる」こそ、教育の本質です。

何のために人は学ぶのか。

究極的には「知りたい」からです。そこには、就職に有利とか、社会で活躍するためとか、世のため人のためとか、そんなことはどうでもいいんです。

ただ、知を求める自分がいる。それが学業の本質だと思っています。

昨今、「学ぶ意義、目的」などが重要視される中で、教育が社会化、応用化し、人や社会との関係性の中で教育や学びか語られるようになりました。人として生きる以上、当然それも大切なことです。

しかし、本来、学ぶことの中心には「知りたい」「学びたい」という純粋な衝動があり、自分と真理という純粋な関係性によって学びは推し進められるものです。この「真理の追究」にこそ学ぶ原点があり、その尊い理念はしっかりと守れらていかなくてはいけません。

ちなみに、求めるべき真理とは、「自分(人間)とは何か」「この世界(自然)とは何か」という2つの命題です。学問分野で言うと、人文科学、自然科学、社会科学という3領域です。(「社会とは何か」という社会科学的な命題は最終的には人とは何か、世界とは何かという命題につながると思っています)。

私は、全ての学問はこれらの命題に行き着くと思っています。そして、これらの命題を探求するとき、学問が尊く、そして底なしに奥深いものになっていくのです。

これも私はICUで学びました。私の専攻は言語学、言語教育ですが、本当に大学の勉強が楽しくてたまりませんでした。

知れば知るほど、自分が知らないことが分かってくる。知らないことが増えれば増えるほど、知りたい衝動が大きくなってくる。言語という魅力に取りつかれ、「言語とは何だろう」「人とは何だろう」と問いを巡らせながら、少し真理に近づいたと思えば、一気に去っていく。

格好よく言えば、そこは真理との対話で、そこにはそれ以外のものはありませんでした。大げさに言えば、ガンジーの「明日死ぬがごとく学べ」という言葉のとおり、「明日死んだらどうしよう」「一生じゃ足りない」と思っていたぐらいです。

生徒に言うことですが、私はただの言語オタク、言語教育オタクです。ある意味、鉄道マニアとか、ゲームオタク、アイドルオタクと変わらないのです。

幸運にも、たまたま言語教育が世の中のためになると言われる分野で、たまたま社会貢献できていますが、究極はただ単に自分の知的好奇心が一番刺激されることをやっているだけにすぎません。数学博士が世の中のためにならない公式を解いているのと変わりません。

理論的な言語学なんか、全く人のためにならないのではと思える分野です。でも、この役に立たなさがたまらない。自分と真理の関係性だけで学問を追及しているのが楽しいのです。

生徒にもこの「真理との対話」という楽しさを教えてあげたい。そして、人とは何か、自然とは何か、という人類が何千年、何万年とつないできた叡知を受け継ぎ、「学び人」として自分と世界を探求していってほしいのです。

ちなみに、脱線しますが、この観点から見たとき、大嫌いだった古典が好きになりました。と言っても、源氏物語と百人一首だけですが。

物語も面白いのですが、源氏物語で家柄や男性に翻弄され、出家する女性たちを読み、「この女性たちにとって恋とは何か、出家とは何か、生きるとは何か」という問いが自分の中で生まれてきたのです。

百人一首にも五七五七七に読まれた文字の裏にある「人の生き方や世界観」が感じられて、はまっていきました。(これらは第一に国語教員である妻、第二に依田泰という人の影響ですが)。

プラス2つのポリシー

プラスしてあと2つポリシーがあります。

1つ目は「進路実現をしっかりサポートする」ということです。人生という大きな視野で見れば、「たかが進路」です。でも、中高の生徒にとっては目の前の最大の関心事であり、その実現に向けて最大限しっかりサポートすることは私たち教員の責務です。

目の前の「たかが進路」に責任持てなければ、未来につなげるなんてことはできません。何よりも、生徒が一生懸命頑張っているなら、一緒に頑張りたいと思わずにはいられません。

もちろん「進路」は国内も海外も、これまでの入試もこれからの入試も全てです。自分の知識、スキルを上げて、これからの未来を生きていく生徒たちの多様な進路の夢を最大のサポートで対応してあげたい。

そして2つ目は「自分が格好よく、生き生きしているか」。格好いいかどうかは重要です。最後は自己満足なのかもしれません。自分の人生だから。

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