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中高のグローバル教育 5つのポイント

さて、ここでは、前ページで提示した「中高で求められるグローバル教育」の5つのポイントを1つずつ考えていきます。

生徒の「グローバル」に対する興味、意識を高める

グローバル教育の一番大切なこと、そして一番難しいことですが、生徒に「自分ごと」として興味、関心を持たせることです。これが全てと言っても過言ではありません。

興味がなければ、生徒は吸収せず、やらされている感だけ残ってしまいます。社会課題は他人事、異文化理解は地理学習の延長、○○スキルはただのテクニックトレーニングで終わってしまいます。

そうならないためにも、生徒に関連付け、興味を耕し、モチベーションに火をつける仕掛けが必要です。でも、本当にこれが一番難しい。教育プログラムは形だけなら作ろうと思えば作れます。しかし、モチベーションという生徒の内面に火種を植えるのは実際大変です。

一番の方法は教員がビジョンと思いを熱く生徒に語ることです。時間はかかります。1回ではダメです。手応えないこともしょっちゅうです。でも、何回かやるうちに少しずつ生徒の心に柔らかさが出てきて、「ちょっとは吸収してくれているのかなー」程度の感覚が生まれてきます。それができて初めて、ファシリテーションやらアクティブラーニングやら、その他の装置が起動します。

私は中高のグローバル教育は、極論ですが、これができれば十分だと思っています。生徒が「自分たちはこういう社会に飛び出すんだ」「自分たちはこういう人材にならなくてはいけないんだ」と意識し、関心を持ってくれればあとは自分で動きます。

逆に、生徒に「グローバル」に対する嫌悪感を持たせてしまっては元も子もありません。大事だ、必要だ、と強いられると、本来好きなはずのものも嫌いになってしまう。こうなったらもう何の装置も動きません・・・日本の英語教育が英語嫌いの生徒を作っているのと同じですね。
 

中高でもできること、中高でしなくてはいけないことを行う

上でも述べましたが、社会人、大学生に求められるスキルをいきなり中高生に当てはめていくのは難しいと思います。あくまでもグローバル教育の導入期、基礎期だという視点で考えましょう。うまく自分ごととして関連付け、生徒の発達段階に見合ったプログラムを提供していくべきです。

そういう意味では、3年間ないしは中高の6年間で段階を踏んで、素地を作っていくことが求められます。例えば、なにかグローバルな社会課題を設定して、生徒たちに取り組ませるにしても、その前に、異文化理解の教育をしていないと文化について共通理解ができていなかったり、そもそもグローバルに関心を持てていなかったりします。

また、ディスカッションのベースになるスキルのトレーニングをしていなければ、いきなりディスカッションといっても難しいのではないでしょうか。英語でプレゼンテーションをすることもあると思いますが、そもそも普段の英語教育がある程度そういう視点で組み立てられていなかったら、生徒は下を向いて原稿を棒読みするだけに終わってしまうかもしれません。

そういった意味で、中高でもできること、中高でしなくてはいけないことを整理して取り組むべきではないでしょうか。

「グローバル」「国際」に真っ向から取り組む

リーダーシップ、クリティカルシンキング、交渉力、課題解決力、その他もろもろ、すべてグローバル教育に大切な要素ですが、それら自体は本質的に「グローバル」「国際」に直接つながる要素ではありません。

場合によっては、グローバル教育と銘打ちながらも、「これのどこがグローバルなの」と生徒が感じてしまうこともあるでしょう。

これらの要素だけに執着してしまうと、グローバル教育の一環なのに、世界とダイレクトにつながらないプログラムになってしまう可能性があります。確かに「グローバル教育=これからの時代に必要な人材の育成」なので、間違いないのですが、やはり中高のグローバル教育には「英語」「国際交流」という要素が重要な位置を占めます。

これは、プログラムデザインの仕方と位置づけ方に関係することですが、上記のような要素を「世界」「グローバル」というテーマに直結させて、生徒が「グローバルと向き合ってるぜ」とダイレクトに分かりやすく感じられるようにすることが必要になってきます。

なので、私は「国際」「グローバル」「異文化」という分かりやすいテーマに主眼を置いてプログラムを設計するようにしています。

一番ダイレクトなのは「グローバル人材の育成」というテーマに取り組ませることです。グローバル教育を通して生徒に「どういう人材になるべきか」を考えさせたいわけなので、遠回りせずに、そのままの課題を生徒に直接与えてしまえばよいのです。

このようにいかにダイレクトに「グローバル」に関連させるのかということも視野に入れる観点でしょう。

学校自体ををグローバル教育の場としてとらえるとらえる

様々な学校のプログラムを見ていると、留学、研修、などが目玉の取り組みとして挙げられています。確かに、留学などはグローバル教育に欠かせないものですし、グローバル教育プログラムとしてとても分かりやすいです。

しかし、これらの研修に参加しない生徒はどうするのでしょうか。留学もできる生徒は良いですが、経済的もしくはスケジュール的に留学できない生徒はどうするのでしょうか。そして、数日〜数週間だけでそもそも人材は育成できるのでしょうか。これらのプログラム自体はとても有意義ですし、様々な機会を生徒に提供していくべきでしょう。

しかし、
軸になるのは単発のプログラムではなく、学校教育全体です。すべての生徒に学校としてグローバル教育を日常的に行っていくことが大切で、その補強として、外部のプログラムや留学というものが位置づけられるべきなのです。


生徒は校舎の中で3年ないし6年を過ごすわけです。その学校自体が「グローバル教育の舞台」と位置付けることが必要ですし、それがなければ長いスパンで軸のあるグローバル教育は実行できません。

日本を知り、世界を知る & 世界を知り、日本を知る

最後の項目ですが、グローバル=脱日本ではありません。むしろ、日本人であることをより強く、より深く実感することは間違いありません。

私の思いとして「日本が舞台であっても国際人としての誇りを持ち、国際が舞台であっても日本人としての誇りを持ってほしい」と感じています。日本人、国際人という2つ品格を備えた人材であってほしいと思うんです。

別に外国かぶれしてもよいと思います(私も多分にそうでした)。そのような表面的なことではなく、確固たる自分を持ち、その自分に誇りを持って、世界とつながれるかどうか、ということです。

そのために、よく言われることは「日本人のアイデンティティ」ですよね。しかし、この言葉も考えるべきことがあります。

最近は帰国生、ハーフの生徒、外国人籍だけども日本で生まれ育った生徒なども多くいます。「日本人のアイデンティティ」と言っても実は多様化していることに気付かされます。特に日本はまだまだ多文化社会ではないので、「日本人」というと「日本で生まれ、日本で育ってきた日本国籍の人」、つまり純血日本人のプロトタイプばかりを指していることがほとんどです。

今や社会は変わり、多様な日本人が増えてきました。一様な「日本人のアイデンティティ」を押し付けられ、帰国生やハーフの生徒が自分のアイデンティティを否定されているように感じ、肩身の狭い思いをするのは忍びありません。マイノリティーと言えども、彼らのバックグラウンドを受け入れ、この「日本人のアイデンティティ」の多様性かつあいまい性も認識していただきたいと思います。

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