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出発間近のドタバタエトセトラ

チケットが取れない

いよいよ渡航の迫る7月になりました。

大学が始まるのは8月末ですが、8半ばから留学生向けのオリエンテーションが始まるとうことだったので、住宅探しをすることも考えて、8月上旬にはサンフランシスコに入ろうと思っていました。

渡航日の希望は731日。81日から飛行機代が高くなってしまうことに加え、サンフランシスコに行く前に、ロスの友人宅に行くことになっていたからです。

飛行機の予約をしないといけないのですが、なんせビザがまだ降りません。格安チケットなので、発券してしまうとキャンセルできず、ビザが下りなければ予約に踏み切れません。カレンダーと睨めっこする毎日。

7月も真ん中を過ぎる頃、やっとビザが手元に届きました。

そこで、さっそく飛行機の予約をしてみたのですが、、、取れない。どのチケット会社に問い合わせても売り切れているのです。

そりゃそうです。10日前では、飛行機のチケットはなかなか手に入りません。格安チケットならなおのことです。

しかも夏シーズン。特に731日は留学生や旅行者が殺到するピークだということを後に知りました。

今から考えると10日前予約なんて愚の骨頂です。しかし、当時の私はわからなかったのです。飛行機のチケットを予約するのは初めてです。1年前にアメリカに旅行した時は留学生の友人が手配してくれたのです。ですから、当時の私は、新幹線の自由席を買うぐらいの感覚だったのです。

飛行機の予約が絶望的だという状況が分かり、一気に焦りが出てきました。

大阪の両親に電話で事情を話したところ、航空券手配会社に勤務している友人に相談してくれました。妹の部活のチームメイトのお母さんです。妹のバスケットボール部は全国大会常連の強豪校で、親同士も応援などを通じてお互い仲が良く、こういうときにもネットワークを発揮してくれたのです。

さっそくその人から電話があり、事情を話したところ、航空会社と交渉してみるとのことでした。海外での事故や事件で家族が緊急渡航する場合に備えて、航空会社はいくつか空席を確保しているようで、それを売ってもらえるかもしれないとのことでした。

「なんで直前まで予約していなかったのか」とチクリと言われ、初めて「航空券はもっと早くに予約しなくてはいけない」ということを知りました。

いつも「決める」ということは後延ばしにしてしまう私。特に予約するとかアポを取るという行動が苦手で、これまで幾度となくギリギリになって焦るということが頻発しています。こんなんばっかりです。

数日後、連絡があり、幸運にもチケットが取れたということ。なんとか今回も瀬戸際で救われました。ずいぶんその方には迷惑をかけてしまいましたが。一応一件落着。

関家の血栓と焼肉

出発を数日後に控えたある日、ある出来事がありました。

家族で焼き肉を食べに行ったのです。

なんじゃ、それ?とずっこけた人もいるかもしれませんが、、実はこれ、それなりの出来事だったのです。

私だけのことではないので、ここで書けないことも沢山ありますが、いろいろあって私と兄はしばらく縁を絶っていました。その言葉の通り、まさに絶縁です。

今から考えると大した絶縁でもないのですが、その当時はしこりも大きく、壊滅的な仲の悪さでした。

おそらく私と兄のことはその当時家族が抱えていた何か重たい部分で、ずいぶん両親を悩ませたとことと思います。

大学院に出発するのは、決定的な決裂を迎えて2年以上経ったころでした。

そんな時、母が「留学に行く前にみんなで食事しないか」という提案をしてきました。もしかしたらダメ元だったのかもしれません。私は、なんかその時、まあ拒否するまでもないか、と思ったのです。たぶん、向こうもそうだったのかと。

そうやって実現した焼き肉。なんとなく平静を装いながらも、相当なぎくしゃくが残っていたと思いますが、お酒を飲み、肉をつまんで、談笑もしながら時間を過ごしました。

若い時の絶縁なんてそんなものかもしれませんが、不可逆的なものだと思っていたものも、たかが数年であっさり解除されてしまいました。

兄と別れた後、帰路の車中で、「うれしかった」と母がポロッとこぼしました。多分、私は返事もしなかったともいますが、その言葉はやけに脳裏に残っています。

当事者の私としては、まだ戸惑いもありましたが、重い血栓が関家の中で少し解け始めた気がした1日です。

大きな荷物を抱えていざ出発

そしていよいよ出発の時が来ました。

私の荷物の量、びっくりしますよ。

大きいスーツケース、ボストンバッグが2つ、リュック。

普通ですか?衣類やら生活用品がここぞとばかりに詰め込まれていたのは当たり前、なんとCD&MDデッキ、小型プリンターまでがボストンバッグに入っていたのです。

貧乏学生ですから、現地で調達は最低限にしたい、と頑張って手荷物で持って行ったのです。爆買の外国人旅行客みたいですね。

焼肉の件のとおり、私の留学に合わせて、母が大阪から千葉に戻ってきていました。母の車で成田まで送られ、、、というはずなのですが、そのあたりは全く覚えていません。

子供なんていつも勝手なもので、「じゃあ、また」と言いながら、背を向けて出発するもんです。母はまた母なりの思いで、大きなバックを抱えて出国ゲートに向かう私の背中を見送ったのかもしれません。

まあ、そんなこと言っても、1か月もしたら母が残りの荷物を持って、観光がてらさっそくサンフランシスコに来るんですけどね。笑

さあ、いざアメリカへ。

こうして私の留学はスタートを切ったのです。

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