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母、登場 1回目

運び屋?

新学期が始まって2週間も経たない9月初旬、日本から母がやってきました。渡米してからまだ1か月余りでもう母親が来るって、マザコンか!と突っ込みたいところですよね。

日本からMDラジカセなど、その他もろもろ持ち込んだ私でしたが、まだまだいろいろな荷物があって、それを第2弾として持ち込むことを兼ねて、母親がやってきたのです。日本から荷物を数箱送るのもそれなりにお金がかかるし、だったら格安航空券で遊びに来たら、みたいな感じで。

これで、物が全部そろいました。郵送を使わずに自ら持ち込んだ物の量は個人留学ではおそらく最大レベル。そりゃ、そうだ。生活と勉強に必要なものをほとんど全て日本から持ってきたので。

母が来たのがいつ頃だったっけ、と思い返していたのですが、ある光景を思い出してそれが分かりました。

ある夜、出先からの帰り道に散歩がてら大学のキャンパスに母を連れて行ったのですが、広場でろうそくを持ち、多くの人が集う場面に出くわしたのです。

その日は2002911日。そう、アメリカ同時多発テロの追悼式が大学のキャンパスでも行われていたのです。当時はまだ1周年で、アフガニスタンへの攻撃も続いていましたから、追悼式と言っても過去というより現在進行中という感じでした。

待っていた3つのこと

さて、母の訪問に際して、私が待っていたことが3つあります。

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つは当然ながら、荷物の到着です。プリンターは母が持ってきたような気がします。

2つ目は料理です。前に書いたように、アメリカの食生活に馴れるまでかなり苦労していたので、1か月半ぶりとはいえ、母の料理が食べられることはうれしいことでした。何を食べたかは一切記憶にないけど。

3つ目は、意外なことです。絶対当たらないと思います。散髪です。

実は、関家では、高校生になるまでずっと家で髪を切ってもらっていました。3人兄弟ですし、節約の意味もあってそうしていたのです。

小学生の時、変てこな髪型に仕上がってしまい、次の日学校に行くのが嫌で、そして、行ったら案の定、友達にからかわれたという思い出もあります。思春期になると、髪型にいちいち文句をつけるようになり、よく喧嘩していました。

高校生になって理髪店、いわゆる床屋に行くようになるのですが、お金がもったいないので極力回数は少なくしていました。結局、お小遣い節約のため、高校、大学でも母に切ってもらっていたこともあったような気も。

さて、アメリカに来て「どうしようか」と思ったことの1つが散髪です。何せ髪切るのって細かいニュアンス必要じゃないですか。「横はこのぐらい、前はこのくらい、前髪が揃いすぎないようにしてください」とか、その程度のことなんだけど。日常会話とアカデミックな会話はできても、自分の望む髪型を絶妙に伝えることは英語でやったことがない。

言語も違う、文化も違う。変な髪にされたらどうしようか。こういうところは保守的なのです。チャレンジができない。日本でも、一度行ったら、ずっとその床屋にしか行きません。社会人になって一人暮らしをした時も、当分の間、わざわざ地元の床屋まで足を運んで髪を切っていました。

アメリカの床屋となると、さらにどれが安全なのか分からん。いろいろあるけど、店の外観できっちりしていないと入る気にならない。ヴィダルサスーンのマークとか出てると安心する。でも、料金がいくらなのか分からない。女子みたいに美容院みたいなおしゃれなところじゃなくていいし、お金もかけたくないし。

ということで、母に頼んでいたこと。「散髪して」でした。わざわざ日本から散髪用のはさみとケープを持ってきてもらって。

渡米前に短くしており、それから1か月半、そこまで伸びていませんが、この後いつどこで髪を切れるか分からないので、ここは相当短めに切ってもらおう、と。

ユニットバスの床に新聞紙を敷き詰めて、母が日本から持ってきた散髪用ハサミでチョキチョキ。そんなことが行われていました。

ちなみにその後の散髪に関しては、粘ったもののさすがに長くなってきたので、腹を決めて床屋に行きました。いつも電車で見ていた「外観よさそうな床屋」です。たしかSuper Cutsという名前で、チェーン店でした。入ってみたら、タイかベトナムだったかの移民の女性がやっていて、気さくに話しながら髪を切ってもらいました。


(この系列)

一番のこだわりどころは襟足です。今でも、そうなのですが、短くしてもらう時に「散髪しましたー、刈り上げましたー、剃りましたー」みたいな直線になっている襟足あるじゃないですか。あれが私は嫌なので、今でもそうですが「襟足が線にならないように自然にしてください」というのが重要です。

値段は10ドルぐらいで、意外と安いんだな。案外いいお店じゃん、と。終わってから鏡を見ると、見事にスパーンと直線が。ああ、伝わらなかった。

それから、1年目の夏に日本に帰るまで、髪を1度も着ることはありませんでした。2年目は家の近くにアジア系の店を見つけて、悪くなかったので、何回か通いましたけどね。

母を連れての観光記録

母が滞在していたのは正味1週間でしたが、授業が始まったばかりでそこまで忙しくなく、合間を縫って、観光にも連れて行きました。私もその時は、まだ滞在歴が浅かったので多くの場所を知っていたわけではないですが、定番どころに連れて行ったりしました。

その中で1つ大きなイベントがメジャーリーグの試合です。サンフランシスコの隣町にオークランドアスレチックスというチームがあります。有名なチームです。

そのオークランドの球場で同じリーグ、同じ地区のシアトルマリナーズとの試合がありました。そう、メジャー2年目のイチローが来るのです。大魔神佐々木も活躍していました。


(オークランドアスレチックスのスタジアム)

母もイチローを見たい、私も見たい。ということで、他にも何人か日本人の友人を誘って、試合を見に行きました。私にとっては、前年のアメリカ旅行に続く2回目のメジャーリーガー・イチローの試合です。

私は、マリナーズのユニフォームを着て、そしてあわよくばファールフライを、と思ってグローブをリュックに入れて意気揚々と球場に向かいました。

しかし、入場前に1つ問題が起きてしまいました。リュックは持ち込み禁止だと入口で言われてしまったのです。NYテロの後からセキュリティーが厳しくなって、液体類の持ち込みやカバンの持ち込みが制限されていたのです。

そんなこと知らねーよ、と思いながらも、実はチケット購入の際にもHPに書いてあったようなのです。どう考えても安全な安全な私のリュック、ちょっと交渉も試みましたがダメでした。

グローブ、水、その他もろもろ、いろいろ入っていたのですが、どうしよう、と。駅に戻ってロッカーを探しに行ったのですが、それもない。中のものはビニール袋に持ち替えたりして、なんとかなるのですが、リュックだけは空にしたところで持ち込めないのでどうにもならない。

そこで、目に留まったのが改札の横に積み重ねて改修用の資材。その間にリュックを押し込みました。盗まれること覚悟で。でも、どうしても球場に入らないといけないんだ。

私たちのシートはライト目の前の席です。ファールフライが来ると目の前のイチローが来ます。リリーフの佐々木が目の前でピッチング練習をしています。うちの母はなぜかイチローを「いっちゃん」と呼ぶのですが、ずいぶん喜んで観戦していました。

終了後、ドキドキしながらリュックを見に行きましたが、無事押し込まれたままの状態でそこにありました。殺人を含め、重犯罪が多発するので有名な治安の悪いオークランドでしたが、リュックは大丈夫なのね〜、ラッキー、なんて思いながら駅のホームに向かいました。



他にもカストロという地区に連れて行きました。知る人ぞ知る、「世界のゲイの中心地」です。これもサンフランシスコの文化であり、観光対象の1つです。

夜歩いていると、おおっぴらに同性同士が手をつないでいたり、キスしていたり、撫であっていたり。カストロストリートの店には、ゲイ用のアダルトショップなどもあって、ウィンドウにはドーナツにあそこが刺さっている写真が堂々と飾られているなど、なかなか刺激的な場所です。

そこで、私たちの前をある男性カップルが歩いていたのですが、その片方がもう一方のお尻にジーンズの上から指を入れこんて、ふん、ふんって突き上げながら歩いていました。母も笑うしかない、って感じでしたけど。

まあ、こういう自由で、オープンで、多様なところがサンフランシスコの魅力です。

そんなこんなで過ぎていった1週間でした。

この時の母についてもう1つ覚えていること。私が授業から帰り、道路から自分の部屋を見上げると、窓からたばこを吸いながら、手を振る姿。気楽なもんだ。

ちなみに母はもう1度、今度は妹を連れて登場します。

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