家庭教師の依頼
留学生活が始まってちょっとしたころ、友人の紹介で家庭教師をしてくれないかという話が舞い込んできました。
相手は現地校で学ぶ日本人中学生の男子です。父親は駐在が終わり既に帰国していましたが、上の娘さん(彼からするとお姉さん)が現地の大学に進学を決めていたこともあり、父親だけ帰国し、母親と子供はアメリカに残ったというケース、いわば逆単身赴任っていうやつです(母親がアメリカで仕事を持っていたのでビザは大丈夫だったようです)。
彼の名前は当時私が作ったニックネームを編集してウォーリーとしておきます。ちなみにお母さんはヒラリー、お姉さんはサリーでしたという呼び名です。3人とも普通の日本人です。
私と出会ったとき、ウォーリーは中1だったか中2だったか。。。彼は現地校に来て数年たっていたので、日常会話や感覚的な英語はある程度身に付いていましたが、文法とライティングが弱く苦労していました。そこで知人を通じて週に1回、土曜日の午前中に私が個別指導することになったのです。
謝金の申し出がありましたが、アルバイトという気持ちはなかったので、交通費込みで1回10ドル(当時のレートで1250円ぐらいですかね)をいただいていました。
お金はそんな程度ですが、私も教師目指していたぐらいですから教えるのも好きだし、暇な土曜日の午前中だし、出不精の自分はこうでもしないと外に出ないし、、、そんなこともあって引き受けた次第でした。
ちなみにアメリカでは留学生(F1ビザの学生)はアルバイトができません。厳密に言うとキャンパス内のアルバイト(図書館や売店の仕事など)は許されているのですが、オフキャンパスのアルバイトはできません。
移民大国にあって国民の雇用を守るため、そして学生ビザを使った労働目的の入国を防ぐためです。昔は緩い部分もあってなんだかんだ留学生が働いていたこともあったようですが、2001年のテロが起きてからは、規制が一層厳格化されました。
まあ、こういう家庭教師みたいなのは個人のつながりでたまにやったりするんですけどね。
授業そっちのけ?
さて、ウォーリーとの授業ですが、正直、初回の記憶しかありません。ライティングと文法の宿題を指導しながら手伝ってあげていたということだけおぼろげに覚えています。
この文章書きながら「あれ、俺ちゃんと家庭教師してたっけ?」と、つい思いたくなるほど教えていた記憶がありません(いや、ちゃんとしてましたよ、、、たぶん)。
というのも、彼との思い出はもっぱらそれ以外の絡みにありました。まずは野球。
私も小中9年間野球をしていましたが、彼もアメリカの地元チームで野球をしていて、サンフランシスコのジュニア選抜チームに選ばれるような選手だったのです。
それを知り、「よし、一緒に野球をしよう」と私は思い、さっそくグローブを調達にいきました。もうこの時点でお金は赤字です。
授業が終わると、近くのグランドに出かけていき、一緒にキャッチボールしたり、ピッチング練習に付き合ったりしていました。彼のアメリカ人のチームメイトと野球したこともあります。
時にバスケットボールやアメフトのボールを持っていき、違う競技で遊んだり、、、正直教えているより、そんなことして遊んでいる時間のほうが長かったと思います。
また、母ヒラリーがランチを作ってくれたのですが、お好み焼き、サーモン寿司など、自分ではなかなか作らないものが出てきて、それも楽しみの1つでした。
それ以外にも、彼とお母さんには家庭教師以外の部分でずいぶんお付き合いがありました。
一度、彼が私の家にお泊りしに来たこともありました。例のリビングルームです。年の差10歳近くあるんですが、布団と寝袋で並んで修学旅行の夜みたいな。クリスマス前にはプレゼント交換なんていうのもしましたねー。
極めつけは、なんと1年目の年越しもその家族と一緒だったのです。私を招待してくれて、食事とお酒をいただきながら、紅白歌合戦見つつ(サンフランシスコにもアジアチャンネルで流れるのです)楽しく年越しいたしました。もちろんお泊りです。ずいぶん親しくしていたのが伝わりましたか。
そして翌年、ウォーリーとヒラリーは、仕事と学業の区切りがよいところで、お姉さんを現地の大学に残し、日本に帰国することになりました。
東京の私立中学への編入を考えていて、どこを受験しようかといくつか学校名を挙げていました。今思うと、帰国生の教育を現地の側から見ていた貴重な機会でしたね。今の自分がそこにいたら、どんな風に学校選びをしているのか相当気になっていたことでしょうね。
ウォーリー エピソード2
さて、ウォーリーは帰国してしまいましたが、実はこの話には続きがあるんです。
彼は青山学院に編入しました。そして私はその数年後にそのお隣りの実践女子に勤務することになったのです。
私は表参道の駅を降りて、青学沿いの道を通って職場に行っていました。そしてそこを通学してくる彼とたまにすれ違うのです。
偶然の再会というほどではなくて、当時はメールもたまにしていたので、お互いが隣の学校にいるのは分かっていました。たまに一言二言交わす時もありましたが、徐々にすれ違いざまにグータッチ(こぶし同士をぶつける挨拶)していくことが習慣になっていました。最初のころは野球部の先輩に挨拶している彼が、ちょっと経つと挨拶される側になっていたりもして、そんな光景もにやけて見てしまったりね。
彼もいまや社会人、アラサーです。今はメールをすることもなくなり疎遠にしていますが、どんな感じになっているんでしょうか。この話にまた続きがあって、彼と一緒に飲む機会なんかがあれば面白いですね。
ウォーリーがこのHPに行き着いたら、ぜひメールください。
正月の暇つぶし
1年目の正月は久しぶりに家族と離れての正月です。幸い、年越しはヒラリー、ウォーリーにお世話になりましたが、それ以外は特にやることもなく、家にこもっているわけですが、何をして過ごしていたのか。
絵を描くことにはまっていました(びっくり!?)。
友人はみんな日本に帰っていたし、旅行するほどのお金もないし、別に外出しても面白くないし、、、ということで、家で一人で黙々と絵を描いていたのです。
生徒にはおなじみですが、私の授業プリントには山ほど絵が出てきて、「絵、上手いですよね」と結構好評です。しかし、それらはしょせん授業用のイラスト。いやいや、こんなもんじゃないよ〜。
そこで、その正月期間に描いていた絵を今でも大切に残してあるのでここで披露します。
サンフランシスコの名所の絵です。写真やポストカードを見て写生したもので、その場所に行って描いていたものではないですよ。今見ると何の芸もないただの写生ですが、なかなかうまいでしょ。
1つにつき1時間から長いと6時間ぐらいかけて描きました(休憩も入れるとほぼ1日です)。すべてシャーペン画です。スキャナーだと黒が鮮明に出てしまうので微妙な質感や味が伝わらないし、ウェブだと縮小サイズになってしまうのが残念ですけどね。
2つほど注意して見てくださいね。1つは日付が2013年の1月2日〜6日になっているところ、、、。本当に正月にずっとこんなことしてたんです。机に向かってひたすらもくもくと絵を描いていたのです。笑えるでしょ。もう1つはちゃんとサインが「Max Kohei Seki」になっているでしょ。サインするのかい!?この時は画家気取りですから。
Alcatraz Island
City Hall
Palace of Fine Arts
Cable Car on Hyde Street