一時帰国は成田空港経由で大阪の伊丹空港に入りました。
本来なら成田空港で降りてそのままローカル線で千葉にある実家に向かうのですが、「出発までの4か月 実家一人暮らし」で書いたように、その時は両親が父の仕事で大阪に住んでいたので大阪に一時帰国しました。
2か月の日本滞在のうち最初と最後の数週間を大阪で過ごし、真ん中の1か月ぐらいを千葉で過ごしたのです。
久々に帰る日本ですが、その雰囲気は懐かしいですが、大阪の家は引越しの手伝いで1度行っただけなので見知らぬ地で懐かしいも何もありません。
さて、日本に戻ってきましたが、大阪にいる間は特段用事がありません。
地元の千葉であれば人に会うこともあるのでしょうが、大阪には親戚と両親がいるだけですので用事といった用事もなく、ただ家でゴロゴロするのが日課です。
せっかくの一時帰国、行動的にしようにも、親に借金をしている貧乏学生には地味な毎日を繰り返えすしかありません。しかも最初のうちは時差ボケで朝2時、3時に目を覚ましてしまうので、ずいぶんと時間を持て余しました。
昼間は母と買い物行ったり、たまにテニスに行ったりして(テニス素人ですが気晴らしです)過ごしていました。完全な「期間限定パラサイト息子」です。
実はこの夏休み、帰国後すぐにある「すったもんだ」があり、そのことに頭が独占(もはや洗脳?)されていて、前半の記憶はほぼそのことしかないのです。
千葉に戻ると、まずいち早くしないといけないことがありました。
3月にハイチュウとともに「ぬっこん」と取れた銀歯をはめに行くことです。なんとか穴が開いたまま夏まで持ちました。行きつけの歯医者にすぐに行き銀歯は一件落着を迎えるのですが、痛い歯があったので診てもらうとなんと親知らず。
レントゲン見ると親知らずってすごいんですね。斜め下に生えていて奥歯の根っこを攻撃しているのが見えます。痛いのを気にしてアメリカで1年過ごすのも嫌だし、時間だけはある夏休みなので抜いてもらうことにしました。
再度予約を取って日を改めて歯医者に行きます。麻酔をギューッと入れてもらい、痛みはないですが、ゴリゴリ切られ、首が持っていかれそうなほどにぐんぐん抜かれていく感触はありました。
「抜歯後、傷口から血がでてきたら腫れないようにうがいをしてください」というような注意事項をもらったので、2時間ぐらいうがいを続けて口から吐き出していたのですが、確実に悪化している。
家に帰って注意事項をもう一度読んでみました。「傷口から血が出てもうがいせずに止血してください」。あーっ!逆じゃん!!
そう、私は2時間も医者から禁止されていた事項を繰り返していたのです。結果、翌日には腫れまくり、会う人会う人に「チュッパチャップスでも加えているのかと思った!」って笑われまくり。
記念に自撮りをした写真があったのですが、数年前に捨ててしまった。せめて笑いを取りたかったのに。。。
千葉の生活も1か月あったので持て余す時間は十分ありましたが、友人にもたくさん会えたし、恋しくてたまらなかったらーめん「なりたけ」も食べに行きましたし、我慢していたマンガ「21世紀少年」の続きも1年分読むことができました。
また後で述べますが母校の高校にお願いして修士論文のデータを取りに行かせてもらったりしていたので、大阪にいる時よりは多少有意義な期間でした。
ちなみに日本にいる時に精力的に行っていたことがあります。レンタルビデオ屋に行ってCDを借りてMDに落とすことです。日本の1年分のエンターテイメントをため込んでアメリカに持って帰るという作業です。くだらないように見えて、こういうのが本当にアメリカ生活では大切なのです。
(大学の友人と1年半ぶりに集合し、まったり過ごしました)
さて、1か月の千葉生活を終え、7月中旬に大阪に戻ります。後半は用事が控えていました。
その年の7月、淡路島を会場に知る人ぞ知るiEARNという世界的なグローバル教育NPOの国際会議がありました。ユースサミットみたいなものです。1993年から始まった国際会議でそれまで南アフリカやらロシアやら世界各地で開催されていたのですが、10年目の2003年、その会議が初めて日本にやってきたのです。
(当時の会議の集合写真、jEARNのホームページより。私もこの中にいます。)
大学院仲間のミオ、そして教員をされているミオのお母様がこの会議に関わっていてスタッフに誘われたのです。
ミオがこの会議のことは前学期にこの会議を題材にICTを利用した教育実践をレポートでまとめており(当時はICT教育はまだ走りでそのレポート自体珍しいものでしたが)私自身も興味があり、二つ返事で参加しました。
会議には各国の小中学生、教員が700人も集まり、様々な教育イベントや活動で5日間盛り上がました。
私も最初はサポートぐらいのつもりだったのですが、いきなり?いつの間にか?結構がっつりスタッフになっていました。
私は広報という仕事をお願いされたのですが、会議の内容をバイリンガルでニュースレターにして即日ホームページで配信するという仕事でした。
その時に作成していた広報ホームページが一部だけ今も残っているようなので、リンクをこちらに貼っておきます。
国際会議なのでニュースレターをバイリンガルにしたいという気持ちは分かるのですが、私がその仕事を引き受けて初めて分かったのですが英語がまともにできるのが私しかいないのです。なので、いきなり?いつの間にか?私ががっつり入らないといけないというカラクリです。
ミオにはめられました。「コウヘイちゃんに英語は任せればいいし、何でもやってくれるから」と売られていたようです。
仕事はすごくハードでした。何が大変だったかって、自分のパートが早々に終わっても、私は全体の翻訳とレイアウトもやらないといけないので他の人が終わるまで最後の作業に入れません。連日深夜2時、3時を超えるまで作業していました。
他にも本部スタッフは一緒の部屋で作業するのですが、眠くなるとみんな床で仮眠とったりしていました。ボイラーが消えた大浴場でぬるーいお湯に寝そべって肩まで入ったり、記事が回ってこないのをビールを飲みながら深夜1時に愚痴を言っていたり、色々なことが思い出として残っています。
そこで本当に色々な人に出会い、刺激と出会い盛りだくさんで興奮しました。会議中は毎日、毎分、毎秒が楽しく、達成感と充実感に溢れていました。とても鮮明に色々なことを覚えています。大変だったけどこの夏を色鮮やかにしてくれました。
今やグローバル教育、模擬国連と取り組んでいますが、教室や学校の枠を超えていく教育の可能性やグローバルな舞台を作る楽しさを知った原点だったかもしれません。
(ボランティアスタッフの皆さんと、左から2番目はミオ。先ほどのリンクあるから、★いらない気もしますが)
さて、iEARNが終わって1週間ぐらいでサンフランシスコに戻ることになっていたのですが、iEARNのハード生活が祟ったのか最後の最後に体調を崩しました。
フライト前日になんと39度近い高熱と腹痛そして下痢。
貧乏学生の格安航空券など変更がきくわけもなく、新たなチケットを取る金銭的、時間的余裕もありません。何が何でもサンフランシスコに戻るわけです。
病院に行き、事情を訴えて点滴と解熱剤をもらいました。
フラフラの中、パッキングをしました。取りためていた音楽をMDにダビングしたりして余計なこともしていたので、母から怒られましたが、いや、アメリカに1年行くにはこういうこともやらなければいけない。
翌日熱だけは薬のおかげで下がりましたが下痢はまだ完治せず、鼻水も止まりません。まるで夏のインフルエンザです(これを書いていて思ったけど、もしかしてそうだったのか??)。
それでも行くのです、貧乏学生。頑張れ、マックス。
母に伊丹空港まで送ってもらい、激励をしてもらいながら出国ゲートに向かいました。日本食やらなんやらを詰めた山ほどの荷物を抱え出発します。
母にはなんとも頼りない背中だったと思います。1年目とは違うフワフワ感に包まれて飛行機に乗りました。何とか10時間のフライトに耐えなくては。。。
こうやって留学2年目に突入していくのでした。この後酷いことが待っているとも知らずに。